遂に我が家にもコロナがやって来た
妻が何処からか貰って来たのだ
濃厚接触者である我々家族は7日間の自宅待機となってしまった
妻は寝室で隔離なので、俺は居間に布団を持って来てほとんど万年床状態
おかげで一日中ゴロゴロしている
こんなに怠けるのも久しぶりだが、仕方ないので罪悪感も無い
この一週間で何をしようかという事で、取り敢えず長編小説をひとつは読もうと決意した
あとは映画でも観ようか、と
ポジティブな自宅待機にしようという訳だ
小説はフローベールの『サラムボー』に決定
映画は俺の中の〈ナンチャッテSF〉三部作、タルコフスキー『惑星ソラリス』、トリュフォー『華氏451』、ゴダール『アルファヴィル』と決めた
あとは読みかけだった本を読む事くらいか
さて『サラムボー』(1862年)だが、予想通り読み進めるのに骨が折れた
会話の少ない描写の連続で、しかもそこには初耳の人名や地名や神々の名などの固有名詞が次から次と出てくる
巻末の索引を参照してばかりの読書だ
舞台は古代ローマ時代のカルタゴで、第一次ポエニ戦争*1の後に起きた、傭兵たちのカルタゴへの反乱の話
主人公はカルタゴの名家の娘であるサラムボー
そもそもカルタゴといえばハンニバルしか知らないってのに、そのハンニバルはまだ小さな子供としてほんのちょっとしか出てこない
終盤、残酷で凄惨なシーンを経て、最後はサラムボーの情念で幕を閉じる
無感動を標榜したフローベールだが、なかなかのロマン主義的カタルシス
今後読み返す事があるとすれば、もっと面白く感じるかもしれないと思った
映画はこの中ではアンナ・カリーナ出演の『アルファヴィル』がいちばん、と言いたいところだけど、『惑星ソラリス』(1972年)が良かった
二十歳の頃に原作を読んで、いたく感動して、ついでに映画も観たんだけど、その時は原作の足元にも及ばないなと思った
でも今回改めて観て、実は少し感動した
原作者スタニスワフ・レムはこの映画に否定的だったらしく、たぶん俺も似たような理由で面白くなかったんだと思う
というのも、原作ではこの惑星を覆っている海はどうやら理性を持った生物であり、この未知の生物とのコンタクトが主題のようなのだが、映画の方はこのSF的状況を利用したヒューマンドラマとなっている
二十歳の頃はピンと来なかったポイントに、還暦近くなった今になって反応したようだ
この惑星ソラリスの海は、それぞれの人間のトラウマに反応し、その原因となっている人物を出現させてしまう
主人公に対して現れたのは、10年前に自殺した妻だった
しかしそれは人間ではなく、単に人間にそっくりな何かでしかない訳だ
と、話は進んで、特になんだという解決もなく終わる
でもどことなく甘美的というか郷愁的というか、そんな気持ちにさせられた
出てきたのが死んだ妻だったからだろうけども
こんなのしか無かったので残念ですが…
トリュフォー『華氏451』(1966年)とゴダール『アルファヴィル』(1965年)だが、どちらも思想統制社会を描いたもの
でも読書や感情を持つことが禁じられるっていう設定は、やっぱりムチャだ
なんか下手な冗談のような感じがしてしまう
でも『華氏451』はブラッドベリの原作ではどうなっているのか気になったから、今度読んでみようと思った
巨匠はどのような手際で語っているのだろうか
何年か前に新訳にもなったくらいだし、きっと面白いんじゃないかな
そして『アルファヴィル』はモノクロの映像の展開と音楽がやたらとカッコいいし、何よりアンナ・カリーナが最高である
実はこの映画を観るのは5回目くらいだが、未だにストーリーはほとんど入ってこない
そんなものはどうでもいい事であると、その都度思ってしまうミーハーなのだった…
と、そんな訳で自主待機は本日で終了し、明日から仕事復帰
あああああ労働意欲はほぼゼロだなぁ
休み方が一向に上手くならない
*1:紀元前264年から241年まで