ぱらの通信

思い付きと思い込みの重い雑感集

涙の理由は平成最後の夏とは無関係で恐縮です

大岡昇平『証言その時々』を買ったのは今年の1月で読んだのが6月頃

タイトル通り、その時々に新聞や雑誌に発表した雑文集

1937年4月の『文學界』に載ったものからスタートして1986年8月『読売新聞』掲載分まで、ついでに「あとがき」の1987年6月まで強引にカウントすれば半世紀にわたる証言の数々が収められている

 

その中に1958年の、雑誌『新潮』3月号に掲載されたもので、こういうのがあった

フィリピン派遣遺骨収集船「銀河丸」の寄港地にかつての日本軍駐屯地サンホセが選ばれたのを知って、大岡がショックを受け、いてもたってもいられなくなる

そこは大岡が戦時中に滞在した場所だったのだ

 

 サンホセで死んだ友達をどこへ埋めたか、僕は知っているつもりである。何故俺にきいてくれないんだ。「銀河丸」があんなつまらない戦場へ寄ってくれるなんて、こっちは考えもしなかったんだ。

 サンホセの地面にぶっ倒れて、わあわあ泣いてみたいんだ。あそこで俺たちがじっと我慢していたことを、知っている奴がいたら、お目にかかりたい。あれはどうしても人に伝えられないことなんだ。自分だって忘れているかもしれない。あれを思い出すには、身体ごとあそこへもう一度行ってみるより方途がないのだ。

 

晩酌のビールで酔っ払ってその日は、「蒲団のへりで涙を拭いて」寝てしまう

その一週間後、銀河丸出帆のニュースで、見送りの遺族が波止場で泣いているのをテレビで見て、「詩みたいなもの」を書く

 

おーい、みんな

伊藤、真藤、荒井、厨川、市木、平山、それからもう一人の伊藤、

そのほか名前を忘れてしまったが、サンホセで死んだ仲間達、

西矢中隊長殿、井上小隊長殿、小笠原軍曹殿、野辺軍曹殿、

練習船「銀河丸」が、みんなの骨を集めに、今日東京を出たことを報告します

あれから十三年経った今日でも、桟橋で泣いていた女達がいたことを報告します。

とっくに骨になってしまったみんなのことを、まだ思っている人間がいるんですぞ。

 (中略)

僕も自分で行きたかったんだが、

誰も誘ってくれる人もなく、

なまじ生きて帰ったばっかりに仕事があり、

仕事のせいで行けないんです。

ここでこうやって、言葉を綴り、うさ晴らしをするだけとはなさけないが、

なさけないことは、ほかにもたくさんあるんです。

誰も僕の気持ちを察してくれない。

なさけない気持ちで、僕はやっぱり生きている。

わかって貰えるのは、みんなだけなんだと、今日この時、わかったんです。

しかしみんなは今は、土の中、藪の中で、バラバラの、

骨にすぎない。骨には耳はないから、

聞こえはしないし、よし聞こえたって、

口がないから、「わかったよ」と

いってもらうわけにも行かない。

しかしとにかく今夜この場で、机の前に坐り、

大粒の涙をぽたぽた落とし、

みんなに聞いてもらうんだ。

うん、あれはどうしてもおれ達のほかにはわからないことなんだ。

おれ達はみんな弱い兵隊だったし、戦争は負け色だった。

内心びくびくしていたが、

こんな遠いところへ来てしまっては仕方ないとあきらめて、

及ばずながら、兵隊らしく、弾を撃って死ぬつもりだった。

(以下略)

 

ここ最近の俺は少しナーヴァスで、やや情緒不安定な感じがしている

これを読んだ時、何故だか泣きそうになったが、今写している時も泣きそうになった

年をとると涙もろくなっていけないな

 

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(敬称略)