最近は大瀧詠一を繰り返し聴いていた
とは言っても『Best Always』というベスト盤なので、大瀧塾の門前でウロウロしている状態に過ぎないが
ミリオンを記録した大ヒットアルバム『ア・ロング・ヴァケーション』の曲は何となく大体知っていたけどそれきりだったし、はっぴいえんどでは変わった曲作る人だなぁ程度の認識だった
ところがこの度、上記ベスト盤でほぼ初めて大瀧詠一の70年代の作品に触れ、予想外の大きな感激を味わったのだった
これは明らかに昨年のビーチボーイズ開眼に始まる好みの拡大なのだろうが、ああ俺はこれまでこんな沢山の名曲を知らずにいたのか、と愕然とした(愕然とした、は少し大袈裟だな)
中に「指切り」という歌が収録されている
何だか聴いたことあるなと思ったら、シュガー・ベイブがカバーしていた
なんか変った曲だなぁと思ってたんだけど、オリジナルはこれがまた最高
アレンジはアル・グリーン風で、仕上がりがどこかピチカート・ファイヴなんだ、女性コーラスの感じが特に
実際ピチカートもカバーしてて、でもオリジナルの方がむしろピチカートっぽくて面白い
何かあの乾いた感じは欧米には有りそうで無さそうで、小西康陽はこの辺を狙ってたのかな、と独りで妄想
俺のような新参者が、たかだかベスト盤ひとつ聴いたくらいの状態で、マニアの王様・大瀧詠一を語るなんていうのは早すぎるし、みっともないので、ネットや本で見かけた大瀧情報を以下に書く事で今は満足しておこう…
音楽のニュース・サイトで読んだ山下達郎の2015年のインタビューで、70年代はヴォーカリストよりプレーヤーの方が尊重された時代だとして、大瀧より細野の方が評価されていて、で大瀧も細野を尊敬していたから、大瀧の70年代の作品はみな細野に向けて作られているのではないか、という仮説を立てている
そして細野の2014年刊行の雑談集『とまっていた時計がまたうごきはじめた』の中で、大瀧が81年『ロンバケ』発売の少し前に細野の家にやってきた時のエピソードを話している(P314〜315)
亡くなってからいろんな記憶がよみがえってくるんだ。ぼくがYMOで世の中に出ていったときに、大瀧くんが自分で車を運転して、当時ぼくが住んでいた白金の家まで来たんだよ。ひとりでね。
ー80年代の話ですよね。
うん。『ロング・バケイション』が出る少し前だったかな。『ロング・バケイション』はすでに完成していて、出るということが決まっていた時期だったと思う。それで、なにをしにわざわざ来たかっていうと、今度は自分が世の中に出ていく番が来たんだという表明をしに来たの。
ー『ロング・バケイション』というアルバムは、いわば細野さんに対しての「決意表明」だったわけですね。
そう。YMOはすでに世に出ていったから、次は自分の番なんだという、決意の表明をしに来たんだ。これでようやく、はっぴいえんどのメンバー四人の足並みが揃うんだということを、わざわざ言いに来たんだよ。
70年代の大瀧は、出す作品がどれもあまりに趣味的にすぎ、セールスに苦しんでいた
先の山下の仮説を通してこのエピソードを想うと、なんだかグッときて涙がこみ上げて来そうになる(…思い込みか)
またこの雑談集の聞き手である鈴木総一郎は、細野がテクノに行ったから大瀧はポップスを定位置にしたのでは、という仮説を立てているが、細野も同意している
2013年に細野が、また何年も作品を発表していなかった大瀧に、作品を作る気になったらいつでも手伝うよ、と人を介して伝えると、それは細野流の挨拶だ、との返事が来たらしい
そしてその2ヶ月後に大瀧詠一は他界してしまった
もしこれが実現していたらその年の大事件だったに違いない
これからが俺のナイアガラへの旅の始まりとなる
きっと楽しいものになるだろう
遅すぎるという事はない筈だ
(敬称略)