俺はセックス・ピストルズが大好きだ
そして俺の中のピストルズとはジョニー・ロットン(ジョン・ライドン)のことであり、シド・ヴィシャスのことでも、マルコム・マクラーレンのことでもない
パンクがあれだけの影響力を持ったのもジョニー・ロットンの功績が大きかったのだと思っている
もちろんシド・ヴィシャスのルックスやグレン・マトロックの音楽的才能、マルコム・マクラーレンのイメージ戦略などを無視する訳にはいかないが、やはり最終的にはジョニー・ロットンのユーモアセンス、作詞能力、唱法、声など、彼の個性というものが決定的だった、というのが俺の考えだ
イギリスのパンク・ムーヴメントはピストルズの登場(76年)で始まり、ピストルズの解散(78年)で終わる
あとは「パンク」の形骸化が今に至るまで続いているのだと思わざるをえない
なぜなら結局パンクバンドの殆どが、ピストルズのイメージを真似しているだけだからだ(今やコピーのコピーの…)
パンクと呼べるのがピストルズだけだったという訳ではなかったはずなのに、だ
俺はパンク世代ではないし、実を言えばパンクロックなどに興味はない
しかし俺がロックを意識的に聴くようになった79〜80年頃は、まだ生々しく「パンク」というものが存在した
それは「パンク」の死骸であったのかもしれないが、無視できないほどの存在感があった
1982年、クラッシュ(The Clash)来日のニュースを当時たまたま見たが、その時ジョー・ストラマーがインタビューで「モア・パンク」みたいな事を答えていて、パンクスピリットの事だったのだろうが、「まだパンク?」とその発言に少し違和感を覚えたものだ、田舎の高校生の感覚だけど…
でもクラッシュにまでこんなこと言うのは、なんとなく気がひける
だってLondon Callingはめちゃくちゃカッコよかったし、ごく初期は別として後々クラッシュはピストルズとは明らかに違う道を行くわけだし
そして今、パンクはもう冗談かパロディとしてしか存在しない
あるいは一つの紋切り型として
少なくとも日本においては
ある出版社から出ている『マルドロールの歌』の解説で、「これってパンク」なんて書かれているのを見ると、何だか憤りを覚えるほどだ
それはむしろロートレアモンとパンクに対する侮辱ではないのか(考え過ぎかな…)
シド・ヴィシャスの死で、パンクロックは何か誤解されたまま今日に至っている
60年代のセックス・ドラッグ&ロックンロールに逆行してしまったのだ
それはジョニー・ロットンの精神に最も反する事だったに違いない
*俺が持ってるのとパッケージが違う
2000年の『No Future』というドキュメンタリー映画(ジュリアン・テンプル監督 )の中でジョン・ライドン(J・ロットン)が、当時はみんな自分の事で精一杯で、誰もシドの事を助けてやれなかった、と涙を流す
少しシニカルな言い方に感じたが、それでも彼の後悔と懺悔の言葉であったのだろう
ジョン・ライドンの自伝(二つ出ていて、俺は一つ目の方しか読んでいない)の中ではシドの事を愚かな人間として語っているが、それでも親友シドに対しての哀惜の念のようなものが滲み出ているように感じたのは、俺の贔屓目のせいだろうか
一筋縄ではいかない男がいたからこそ、セックス・ピストルズはあれだけ魅力的であったのだ