ぱらの通信

思い付きと思い込みの重い雑感集

演歌について

今回は「演歌」というジャンルの音楽について、ちょっと思ったことを書いてみよう

その前に、演歌とは何ぞや、という定義が必要かもしれないが、そこには触れない(難しいから)

各自の「演歌観」を漠然と思い浮かべて貰えば事足りるだろうと思う

 

さて、演歌である

演歌とは、あくまでJ-POP(日本の大衆音楽)の中のひとつであり、せいぜいが高度成長期以降の音楽である

念のため言っておくが、「日本人の心」が表現されているルーツ・ミュージック的なものではないし、ジャマイカにおけるレゲエに相当するようなものでもない

よく使用される音階や歌詞がそれ風だというだけの事だ

 

個人的な感覚だと、演歌が個別で扱われるようになったのは90年代からだと思う

それまでは歌番組で松田聖子田原俊彦なんかと一緒に聞くことができた訳だが、それ以降は演歌を耳にすること自体が極端に減ったように感じる

もっとも歌番組自体が激減した訳だが

 

 

一応断っておくと、俺は演歌を聴かないし、もちろん詳しくもない

はっきり言うと好きでもない

そればかりか若い頃は、変に情感に訴えようとする音楽を全て「演歌」として軽蔑していた

ジャンルとしての「演歌」というよりは、「演歌的」なものに対して、かな

 

俺の分類では日本の歌のほとんどは「演歌」である、「演歌」だらけである

たとえ若い人が作った今流行りの歌であっても、ほとんどが要するに「演歌」だ

 

形態がロックであろうとヒップホップであろうと「演歌」であることに変わりはない

あの歌もあの歌手も、みんな「演歌」であり、「演歌歌手」である

そう考えると、日本の音楽のほとんどが「演歌」となり、結果「日本人の心」を表現している、という事になって前言撤回しなければいけなくなるな…

 

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なんて調子に乗って否定的に書いてはきたが、昔流行った演歌なんかは、そう悪くないかな、なんて今では思ったりしている

八代亜紀の「雨の慕情」*1なんかちょっと洒落た感じだし、北島三郎の「与作」*2なんかは感動的ですらある

 

それらは「演歌」というジャンルにこだわらずに作られているからだろうか

かつての演歌はポップス(歌謡曲)の一変種に過ぎなかったのだ

現在でも、俺が知らないだけで、そんな風に感じるものが沢山あるのかもしれない

 

おまけに彼らは圧倒的に歌が上手い(訓練が違うね)

演歌歌手や民謡歌手と互角に張り合えるポップスやロックの日本人シンガーなんか滅多にいない

黒人のソウルシンガーみたいなものである

 

  

もう今から10年以上前のこと、出張先で当時60歳手前の部長のTさん(現在は退職)がカラオケで歌った、新沼謙治の「津軽恋女」*3は、いい歌だなあ、と思った

なんでだろう、その時の状況もあったのかな、本当に「ジーン」って感じだった

その時のTさんの歌も良かったんだ(ああ懐かしい)

年々涙腺が脆くなるからね、そういう感じの事なんだろうか

いや、改めて聴いてみたけど、やっぱりいいね(もちろん新沼謙治もいい)

 

 

そんな訳で、お送りします

新沼謙治で「津軽恋女」

ではまた

 


津軽恋女 20170405

吉永小百合がメチャクチャ綺麗だ(ただしこの歌とは全く関係がないようです)

 

(敬称略)

 

 

*1:1980年 作詞:阿久悠作曲:浜圭介

*2:1978年 作詞・作曲:七澤公典

*3:1987年 作詞:久仁京介、作曲:大倉百人