ぱらの通信

思い付きと思い込みの重い雑感集

小春日和をめぐって

小春日和の「小春」とは、だいたい旧暦の10月頃を指す言葉だそうだ

だから新暦だと11月から12月辺りの期間となり、冬の季語にもなっているとの事

テレビでやってたのをたまたま見て知った

漠然と秋、新暦で10月頃か、せいぜい11月くらいだと思っていたのだ

 

ところで、「小春日和」のことを英語では「インディアン・サマー(indian summer)」という

はじめは、小春日和が何でインドの夏なの、なんて思った(ヒドいもんだね)

これは所謂「インディアン」、今で言う「ネイティヴ・アメリカン」のことだったんだな

 

 

昔は「インディアン」と呼ばれていたアメリカ原住民のことは、現在は「ネイティヴ・アメリカン」と呼ぶべきだそうである

なるほど、政治的に正しい呼び方ね、了解

 

でも、彼らが暮らしてた土地を征服して、勝手に「アメリカ」って名付けたくせに、「ネイティヴ・アメリカン」って呼ばなきゃ、ってのも変な話じゃないのかな

それ、「インディアン」と呼ぶのと大差ないんじゃないのか

そこは「インド」じゃなくて、正確にはアメリカ」でした、だから「ネイティヴ・アメリカン」です、って何か釈然としないものがある

 

そもそも、彼らは自分たちの土地をどう呼んでいたのか

そして、それに応じた名称で呼ぶのがスジというものじゃないのか

その際、彼らが使っていた言語の発音を英語化するのは大目に見ようじゃないか

 

とはいいながら、細かにたくさんの部族に分かれていたとすれば、統一は難しいのかな

だからって、彼らの様々な特徴を語源にして呼んだりすれば、今度は別の「差別」になるしね

ほんのちょっとだけ調べたら、歴史的呼び名である「インディアン」に誇りを持ち、名称を勝手に変更する事こそ「差別」だ、という意見もあるらしい

そりゃそうだ

オーケー、この事は俺の中の問題としておこう

 

 

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さて、小春日和といえば思い出すのが、アースキン・コールドウェルというアメリカ作家の短編小説「小春日和」

またまた、そんな読書家のふりして〜、なんて言わないでほしい

そういう、カッコいい話ではないのだ

 

学生時代の英語の授業で、この小説を原文で読んで、その感想文を書くという課題があったのだ

確かプリントが配られて、それを読んだはず

辞書を引き引きして、正しく読めているのかさえ分からぬまま、とりあえず感想文はでっちあげた

かなり苦労したけど、何時間もかかったんじゃないから、短いものだったんだと思う

 

内容は、細かいところなんか忘れちゃったし、手元に無いので確かめようもないけど、少年少女の幼い「性」の話だったと思う(というか、そう解釈して読んだ)

で、感想文はというと、当時読んだばかりの澁澤龍彦の本の中にあった、ドゥルーズマゾッホ論を元ネタに、この少年少女のサディズムマゾヒズムを書いたのだ

 

先生の評価はというと、俺の英文の解釈については何も言わず、誰より一番面白い感想文だったと言ってくれた

少しは俺の株が上がったのかもしれない(いや、呆れて下がってしまったか)

やっぱり俺の穿ち過ぎだったかな…

 

 

その「小春日和」は、俺が初めて外国語で読んだ小説だったのだ

冒頭の、インドの夏、なんていうのはその時のアホな疑問だった

そしてそれっきり、外国語原文のままの小説は読んだことがない