先日、職場の30代女性社員との雑談中、以下のような話を熱く語った
このご時世、女性を相手の下ネタは最早セクハラとして御法度だが、しかし男の下ネタが必ずしも性欲まみれである訳ではなく、それどころか極めて観念的な場合が多いほどで、むしろ女性の性的話題の方が生々しく、時として卑猥ではないのか(だってほとんどが経験談じゃないか)、と
そして同様に、男がウンコの話をするときは多くの場合、俎上に載せられているのはウンコのイデアであり、故に世の女性が眉を顰め目を背けるような類の性質(形、色、臭い等々)を具体的に想像しているのでは決してない
よって、男はウンコの話をしながらでもメシが食えるのだ、と
一体全体、俺はその時、いかなる理由でスイッチが入り、力説に至ったものやら、今となっては思い出せないが、世の男性諸君のある程度には、上記の事に同意してくださるものと信じている
いやしかし、これは危険思想であろうか
もちろん、セクハラ等々の擁護をしたいのではないので、念のため
さて、前置きが長くなった
以下に語ろうと思う御下劣な話の、これは前もっての言い訳であった
そしてそんな話の苦手な方、嫌いな方はどうかご注意いただきたい
フランスが生んだ奇跡の作家、ジャン・ジュネの『花のノートルダム』の中に、こんな一節がある(ちなみにジュネは刑務所暮らしの同性愛者であった)
自分の屁の匂いが大好きで、ここ(刑務所)の生活にあっても、毛布の中にもぐり込んで、角型に握った掌中に、つぶれた自分の屁を握り、鼻のところへと持ってきます。
屁が、埋もれた地中の宝物を、幸福を、私のために開いてくれます。
私は嗅ぎます。
私は吸い込みます。
私は、それが、半ば固体化して、鼻の穴から降りてゆくのを感じます。
ただし、自分の屁だけが、私をよろこばせるのでして、絶世の美少年たちの屁でさえ、私には厭でたまりません。
単に私がその匂いが自分から出たものか、それとも別の一人から出たものかと疑うだけで、すでに私のこの楽しみは失われます。
(堀口大學訳 改行と註は筆者、また一部省略した)
何てものを読ませるんだ、という怒りの声もあろうかとは思うが、それにしても強烈な一節である
しかし、俺だけではなく、おそらく皆も同じように、自分の屁に喜ぶかどうかはさておき、少なくとも自分の屁をそれほど臭いとは思わないのではないか
そしていよいよ本題は、更に下品な方向へ…(恐縮です)
そのとき俺は下痢だった
便器に座ったきり、しばらく便所から出られないほどであった
そうなるとどうしても自らのウンコの臭いが、その小部屋の中を満たしているのが分ってくる
ところがだ、俺はその臭いの中で平然と座り続けられるのだ
つまり、自分のウンコの臭いは苦にならないということだ
これは当然のことながらも、また不思議なことである
外出先でウンコをしようと便所に入り、運悪く前の奴の臭いが残っている時の、あの不快感といったら
できることなら、すぐさま別の便所に駆け込みたいほどの臭さである
お前、こんな臭いウンコして恥ずかしくないのか、と
さて、俺の下痢もひと段落、ようやく腰を上げ、便所を出たのもつかの間、すぐにまた便意をもよおし、急いで同じ便所へと逆戻り
と、再びドアを開けた途端に突き刺さる、まるで他人のウンコのような臭いは一体何なのか
間違いなくこれは、さっきまでの俺のウンコの臭いのはずなのに
その時、初めて自分のウンコが特別ではないことに気づくのだ