ぱらの通信

思い付きと思い込みの重い雑感集

ZOZO前澤社長とレーモン・ルーセル

最近ZOZOTOWN前澤友作代表取締役社長が、何かと話題を振り撒いている

俺はZOZOで買い物なんかしたことがないばかりか、この間まではゾゾもメルカリもモンストも区別がつかなかった男であるが、前澤社長のここ最近の話題をネットやテレビで見て、ゆくりなくもレーモン・ルーセルのことを思い出した
 
なぜ総資産3000億円の通販サイト運営社長が、100年前のフランスの作家を連想させるのか
まずは、さほど有名ではないと思われるルーセルの紹介から始めよう
 
 
レーモン・ルーセルは1877年、かなり裕福な家庭に生まれた
最初はピアニストを目指し、パリ音楽院ではかのアルフレッド・コルトーと同級生であり、また2歳年上のモーリス・ラヴェルも同時期に在籍していた
卒業試験ではコルトーに次ぐ第二席という腕前であった
 
ところがルーセルは歌を作ろうにも、言葉は次々と出てくるのにメロディはさっぱり出てこない
そんなこんなで、音楽を捨て詩人としてやって行くことを決意、1896年19歳のときに処女作の長編韻文小説を自費出版する
 
 
そしてこの作品の執筆中に、自分は天才であるという、強い「栄光の感覚」を味わった
それで、ペンから発する光が外にもれて、興奮した群衆が家に殺到しないよう、カーテンを閉め切って執筆したという
果たして出版日当日、予想に反して世間が全くの無反応であることに相当な失望感を味わい、それは鬱病になるほどだったそうだ
 
その後、代表作『アフリカの印象』*1、『ロクス・ソルス*2を出版するが、またしても「栄光の感覚」は実現せず、更には大衆化を図ろうと演劇にして舞台にもかけたが*3、やはり理解は得られなかった
 
というのもこれらの作品は、仔牛の肺臓製のレールを走る彫像だの、楽器(チター)を弾く大ミミズだの、ひとつの口で同時に四つの歌を歌う歌手だの、人間の歯を次々と使ってモザイクを作る飛行機だの、生涯で一番思い出深いシーンを演じる死者だの、そんな奇怪なエピソード満載の物語なのだ
 
しかし、捨てる神あれば拾う神ありで、時は20世紀初頭、前衛文学の季節である
シュルレアリストたちの熱烈な支持、擁護、絶賛があり、一躍ルーセルはその先駆者に祭り上げられる
その熱狂は劇場で一般観客とアンドレ・ブルトンら前衛文学者たちとの乱闘にまで発展した
 
ところがルーセル自身には前衛文学のつもりは一切なく、シュルレアリスムどころかランボーすら読んだことがなかったらしい
というのもルーセルが尊敬する文学者は空想的冒険小説家のジュール・ヴェルヌであり、ブルトンらの支持はむしろ有難迷惑なものであった
 
 
死後、あらかじめ用意していた『私はいかにし或る種の本を書いたか』を出版し、その中で自己の創作方法を明かしている
それは、音が似通っていて意味が全然違う文をふたつ(文Aと文B)作り、それぞれ文頭にA、文末にBを置き、Aに始まりBで終わる筋を考え作り上げるというものだ
作品に現実のものは何一つ含んではならない、というのが彼の考えなのだ
 
 

レーモン・ルーセルの謎―彼はいかにして或る種の本を書いたか

 
 
さて、では何故そんな作家が前澤社長と繋がるのか、何故ルーセルを連想させたのか
長い前置きだったが、理由はこれから
 
 
上の紹介文程度でも、レーモン・ルーセルという作家がいかに変り者であったかは、何となく伝わったかとは思う
が、しかし変わり者なのはレーモンだけではなく、派手好きで、気まぐれで、驚くべき浪費家であったというその母親もそうであった
以下、本稿のほとんどのネタ元である、岡谷公二『レーモン・ルーセルの謎』から引用する
 
ある時彼女は、息子と、十人ばかりの取り巻きと、料理人頭を連れ、豪華なヨットでインド旅行を企てた
この時彼女は、途中で死ぬかもしれないと考えて、棺を積んで持って行った
やっとインドの港に着いた時、彼女は双眼鏡を目にあててしばらく見ていたが、突然「あれがインドなの?、船長、フランスに帰りましょう」と言って、ヨットをそのまま引き返させた、という

 

このエピソードが何だか、前澤社長の計画している月旅行を想像させる

と、そのために長々と書いてきたのでありました…しかもレーモンの方じゃなく、その母親…

 

 

その後の調べで、ルーセル家のインド旅行は、すぐにフランスへ引き返したのではなく、セイロン島に数日滞在した、ということが判明しているそうだ

そんなこと、分からない方が面白かったのに

 

*1:1910年

*2:1914年

*3:それぞれ1911年、1922年