ぱらの通信

思い付きと思い込みの重い雑感集

オーウェル『1984年』読了記念

たかが小説ひとつ読み終えただけで「記念」と銘打つのには訳がある
ジョージ・オーウェルの『1984年』は俺の「死ぬまでに読んでおくべき本」リストの中にずっとあった作品だったからだ

高校生の頃に、この小説に触発されてデヴィッド・ボウイが『ダイヤモンドの犬』というアルバムを制作したと知って以来、ずっと読んでみたいと思っていた
このボウイのアルバムは終始緊張感漂う大傑作であり、俺の長年の愛聴盤なのだ
しかしそのオーウェルの『1984年』は、かなり前に買ってあったものの、パラパラめくってみては、なんだか面倒くさそうだな、と敬遠していたのだった
というのも俺はSF小説が苦手で、作品の世界に馴染むまで、いつも苦労するのだ

この小説は三部構成で、第1部が俺にはやや苦痛だったが、それは俺がSFが苦手だという事による理由が大きいと思う
SF小説にはよくあるが、今回で言えば「憎悪週間」「新語法(ニュー・スピーク)」「二重思考」など、独自の用語が出てくるだけで俺みたいな者には疲れてしまうのだ
また、巻末には付録として「ニュー・スピークの諸原理」なる解説文が1章あり、一応読むには読んだが、正直退屈した
 
こういう物語の外に多くの解説を入れるのはSF小説では常套手段なのだと思うが、例えば同じく注釈や解説だらけの『家畜人ヤプー』では面白がって読めたのは、内容もさることながら、日本人作家による日本語の文章と翻訳による文章との違いがあるのかなとも感じる
まあもっともSF好きには、こんな注釈や解説みたいなのがまた堪らないのだろうなとは想像するが
 
そんなわけで第1部は長すぎるイントロダクションという感じがして苦痛だったわけだが、第2部からはいよいよ物語の展開が感じられて、興味を持って最後まで一気に駆け抜ける事ができた

 

1984年 (ハヤカワ文庫 NV 8)

(ちなみに俺が読んだのは新庄哲夫訳の方)

 
ところで、ボウイの『ダイヤモンドの犬』との関係だが、もろに「1984」や「Big Brother」という曲はあるものの、実際には小説に触発されたという以上のものは無い
 
ボウイのアルバムでは小説以上に世界が荒廃していて、放射能などの影響を受けて変容してしまったグロテスクな人間や生物が跋扈しており、小説にあるような管理社会も既に崩壊してしまっているようだ
そしてこれは大事な点だが、小説にはダイヤモンドの犬もハロウィン・ジャックも登場しない
〜というのも俺は出てくるもんだと思ってたから、念のため…
 
 
新訳版の解説に、この本がイギリスでは「読んだふり」ランキングの1位だという事が書いてあったが、これそんなに読んだふりしなけりゃいけないような小説かなとも思う
決してこの小説は難解でも晦渋でもないからだ
 
そこでふと思ったのが、やっぱりデヴィッド・ボウイの事
つまり、ボウイがこの小説を世界中のロックファンに広めてしまったので、それにつれて「読んだふり」の人が爆発的に増加した、という推理
少なくとも日本ではこんなところじゃないかと思うが、本国イギリスでも同様なんじゃないのかな?
いや本国だから尚更??